『三四郎』

三四郎 (新潮文庫)

三四郎 (新潮文庫)

この本の中に「三四郎はこの瞬間を捕えた。」という一文があります。僕はその文章を読むまで、ほとんど頭を空にして、だらだら文字を追っていました。だから見た瞬間びっくりしてベットから跳ね起き、一回顔を洗って、初めから読み直しました。その一文をまたお目にすることができるのはそれから一日後でした。一文があるのは物語の後半、ずっと受動的だった三四郎が初めて行動を起こす場面です。

 二人は五、六歩無言で歩いた。三四郎はどうともして、二人のあいだにかかった薄い幕のようなものを裂き破りたくなった。しかしなんといったら破れるか、まるで分別が出なかった。小説などにある甘い言葉は使いたくない。趣味のうえからいっても、社交上若い男女(なんにょ)の習慣としても、使いたくない。三四郎は事実上不可能の事を望んでいる。望んでいるばかりではない。歩きながら工夫している。
 やがて、女のほうから口をききだした。
「きょう何か原口さんに御用がおありだったの」
「いいえ、用事はなかったです」
「じゃ、ただ遊びにいらしったの」
「いいえ、遊びに行ったんじゃありません」
「じゃ、なんでいらしったの」
 三四郎はこの瞬間を捕えた。
「あなたに会いに行ったんです」
 三四郎はこれで言えるだけの事をことごとく言ったつもりである。すると、女はすこしも刺激に感じない、しかも、いつものごとく男を酔わせる調子で、
「お金は、あすこじゃいただけないのよ」と言った。三四郎はがっかりした。
 二人はまた無言で五、六間来た。三四郎は突然口を開いた。
「本当は金を返しに行ったのじゃありません」
 美禰子はしばらく返事をしなかった。やがて、静かに言った。
「お金は私もいりません。持っていらっしゃい」
 三四郎は堪えられなくなった。急に、
「ただ、あなたに会いたいから行ったのです」と言って、横に女の顔をのぞきこんだ。女は三四郎を見なかった。その時三四郎の耳に、女の口をもれたかすかなため息が聞こえた。

青空文庫http://www.aozora.gr.jp/)「三四郎
http://www.aozora.gr.jp/cards/000148/files/794_14946.html(アクセス:2006年8月28日)

それまで文章を頭で理解しようとやっきになっていたのが、急に鮮烈なイメージとなって迫ってくるようでした。最近では作品を分析しながら読む癖がつき、ああこの部分はあえて神話的構造にしてあるんだな、だから主人公は父親が嫌いなんだ〜、なんてことを思いながら読んでいるので、物語に入り込むことはありませんでした。しかし、今回だけは特別その一文を読んで入り込んでしまいました。

三四郎はこの瞬間を捕えた。

なるほど名文だな、と思いました。


読書 (100%) - 78位


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